才能というものがあるとすれば、 「自分は世界最高の才能を持っていてしかもそれを行使できている」 と考えています。
自己暗示的ですが、 脳が冷静である間にこの暗示が解けることは有りません。
私の臨む創作活動には 才能と努力を区別できる瞬間などないからです。
自分が1年間かけて出来るようになったことを、 彼は1時間で出来るようになった。
これは主観的な事実に過ぎません。
才能について
はじめに
P・M班所属の4回生muuです。
先にことわっておくのですが、私自身の精神は多分 人類大体の人と比べてもすこぶる安定してます。 幸福なことに、これまでの人生何の苦労も悩みも無く過ごしてきました。 創作についてを除いては。
しかしまあ、これも客観的にみれば非常に贅沢な悩みです。 他のいろんな人の様子をうかがうと、 私の場合、かけた時間にしては得られる物もいつも多いみたいですから。 実際、私は才能あって、行使できている方の人間だと思います。
そういうわけなので、これから話すことは大抵の人の重要な悩みと比べると 何のこともない些事の話です。
私は他人がいつも何を考えて過ごしているのかとても興味があって、 それを垣間見れるような話にこそ飛びつくようなタチです。
今回の話はむしろ、そういう人に向けた物になりそうです。
跋扈するクソ理論
絵を描いていました。 しかし、彼の絵は私のものよりも遥かに上手で魅力的でした。 私の絵に関するいかなる能力も彼には劣り、 それは現実的に可能な努力では如何ともし難いでしょう。 彼は私より10歳も年下でした。
今日の話題は簡単に言えば、 巷にあふれるクソ貧弱な才能クソ理論に基づくクソ呪詛を解き、 より強い呪詛をかけるというものです。
「才能がない? 努力しよう!」 「全力でやったでしょ? それこそが君の宝だ!」
このように短絡的に結論づけるなんてのはかえって苦悩をより難解にする クソクソクソクソofクソ理論です。
私たちの悩みはこんな程度ではないし、 気休めにしかならない。 苛まれ、吐き気を催し、胸をきつく締め付けられるような惨めな夜は減らない。
稚拙な才能理論で一時的にスッとさせ、信仰を得ている者がいたとすれば それはとんでもない詐欺師だ。
才能の問題は絶対に解決しません。 したと思ったらそれは幻です。 ただし、幻を見ていることがいつも悪いわけでは有りません。
思い悩んでいることが まさに何かの欠乏への不満ならば、 満たされるまで不満は無くならない。
けれども才能というのは非常に抽象的な概念です。 抽象的な概念というものは往々にして その内側に具体的な概念を含んでいます。
もし、どのような激しい痛みにも耐える覚悟で、 「才能」という概念を咀嚼したいと考えるのであれば、 つまりそれがどのような要素で成り立っているのかを考えることになります。
彼我の能力
自分自身が現在持っている能力の、 実際どの部分が「才能」に起因するもので、 どの部分が「努力」などの後天的な要因から来るものなのか 測定することは難しいです。 もし、今後より科学的な解析が進んで手軽に自分の能力分析が出来るようになったとしても、
今度は「彼」の能力の内訳を私は知らないことに気づきます。
絵のとても上手は彼は、つまるところどの部分が先天的天才なことからなる魅力なのか。 それはひとまず向こう10年は明かされることの無い情報でしょう。
我々は彼に才能を感じ、自分にはないと思う時、 才能そのものを直視できているわけではないのです。
才能が無い
そうであるならば「才能が無い」 と感じる際には何か根本的な要因—他の具体的な問題を抱えているはずです。
クレバーな時間なら、以下のようなことに思い当たるでしょう。
- やる気の欠如、内的動機づけの欠如
- 実現可能で、明瞭な目標が定まっていない時、 モチベーションは低下する この状態を再構成して自分の潜在的能力の欠如として認識する
- 自分の目的や欲求が、行動の価値と不一致の場合、 行動は消極的になる (ある個人は承認欲求を満たしたかった。
そのために適した行動は「絵を書くこと」では無かった)
- 栄養不足、睡眠不足
- コンディションが万全でない場合、普段なら解決出来るはずの問題に悩む 複数の情報をうまく結び付けられなくなる
- 環境的、社会的なストレスの抽象化
- 自分の能力とは必ずしも関係のない問題であっても、 その原因が自分や、先天的な要因にあると考えることで 許容しようとする場合がある
- 解決不可能な問題からの逃避
- 後述
このような場合、才能が無いことへの処方せんは 神から新たなる能力を授かることでは無いことがわかります。
また、どんなに脳の解析が進んで 科学が潜在的な能力について解き明かしても 一向に頭痛の種が無くならない。 なぜならこの痛みは潜在的な能力が欠けていることから来ているのではなく、 本当の問題を正しく認識していない状況になっていて、 解決に向かって歩みを進めているわけでは無いことに起因するからです。
これが、才能の問題が解決しない理由です。
繰り返しになりますが、これは良いとも悪いとも言えないことです。 すべての問題は解決しなければいけないということは有りません。 解決には問題を抱えたまま余生を過ごすこと以上の苦痛を伴う場合があるからです。
諸問題の解決方法は割愛またはより専門的な場所に任せますが、 最後の項目「解決不可能な問題」については 創作に関わる部分だと感じるので少し触れておこうと思います。
幻が見えなくなった
才能の幻が消えたことで むしろ残酷な現実を知ることになります。
それは
今実際に生じている能力の差 効率的に使えた時間の多寡 自分に残されている時間
漠然と「才能」として片付けていたものは 受け入れがたい事実をおぼろげにしてくれていたことに気づきます。 このようなことは別に、気づく必要性など無かったかもしれない。
私が非効率的に能力を習得している間に、 彼は効率的に多彩で、より深い能力を身に着けていっていた。 こんな状況は少なくともしばらく、今後も続いていくことだろう。
悩みが具体的になり、しかもそれは解決できないと分かることは どれほどの苦痛でしょうか。
それがどうしたと磊落に笑い飛ばせる日は良いでしょう。 とはいえ時は過ぎ、残る時間は無くなっていく 体調も優れない日が多くなるでしょう。
10年と生きられるか分からない 老体を横たえ、それでも何かを渇望している。 満たされることはもはやないならば、 目標に向かっていることを確認できない。
しゃがれた声でなおも笑える日は何日あるでしょうか。 全力でやったからと一定の満足を感じることは出来るでしょうか。
無理でしょう。出来たと感じられたなら幸せですが、 全力などというのは現実的に不可能なものです。 どれだけ一心不乱にと思っていても、散漫になる瞬間はある。 社会的な生活をしていれば、「打ち込んでる」時間ばかりではないことに気づく。 「可能な限り」というのはより悪化する考えです。 「可能」の線引きを適切にすることは出来ません。 どれだけ効率を追い求めて実行しても、その計算の正しさはだれも保証してくれないし、 その通りに実行できなかった、 あの1日、あの1時間、あの1秒についての後悔が堂々巡りするのです。
この程度の誤算はまあ良いだろうと許容しようとしても、 そうしようと考えること自体、 自分の頭をもたげる悩みや求めてやまない夢を自ら 多少のミスを許容できる程度の取るに足らないものとする、 幻想の先にいる「夢を叶えた自分」すら台無しにすると思ってしまう。 結局、自尊心はどうしようもなく傷つけられることになります。
死は避けられず、痛みも伴う
ただし、その欲求を抑圧して一生を終えることは 何らその個人の人生の尊厳を損なうものでは無いです。 なぜなら現実世界においてほとんどの欲求は叶えられないし、 一握りの「夢を叶えた」人間たちもまた、その足跡のうちに諦めた夢を抱えて死んでいったからです。
私やあなたは死んだ、しかし赫々と死んだ。
それを否定できる者はもはやおらず、認める者ももはやいません。
吐き気をマシにする唯一の方法は、 その問題や、その解決のために喘ぐことや、その叶えられない夢について 抑圧したり許容したりすることではなく、 「今ここに抱えている状況」自体を 生活を送る者にとってごく自然で、十分に理知的なものであって 特段人生を台無しにしないものとして認識することです。
このことはしかし枕を濡らす夜を減らさないかもしれません。 ただそれがあり得る、理解できるシチュエーションだと知っていれば、 恐怖する必要がなくなります。
死ぬ際の痛みを避けられないように、叶えられない欲求が生じた際には 当然苦悩することになるのです。
解決のための手立てを考えることは、欲求を満たしていくために重要ですが、 苦悩を和らげるのに重要なのは理解することです。
痛いし、苦しい。 そう感じて良いし、当然そう感じることになるのです。
姿を消した人たち
このような考え方はまた、創作自体へのスタンスにも影響することがあります。
私やあなたはいつでも筆を置いて良いし、 何かを生み出すことに飽きて良い。 (もちろん、社会的立場や期待してくれる人の存在など、現実はより複雑ですが)
余った人生のうちに出来ることは限られている。 それは行動の回数でもあるし、クオリティでもあります。
あなたはもしくは、長く創作を続けているかもしれません。
長く続けること自体は何らあなたの人生を豊かにしないし、呪縛です。 それはだんだん面白みをなくしていく長編小説を、 途中まで面白く読んだからと惰性でページを捲ることと、区別出来ないのです。 筆を取り、苦しみながら何かを生む理由は常に 現在か、未来に持ってください。
精緻な絵で人の注目を集め、また謙虚で朗らかに創作を楽しんだ人たちも 10年経つとほとんど姿を消しました。 残った少ない人たちは時折、 「長く続けて良かった、私はより良い人生を歩めた」と感じるでしょう。
半分は正しく、半分は間違っているでしょう。
私やあなたはそれぞれ1本の道を歩いていますが、 それは他の無数の道の先を知らずに歩いていることでもあるのです。
おわりに
私は過激派なので、承認欲求を満たすことを第一目標において創作を行う人たちのことを 軽蔑こそしないですが信用していません。
私も作品をアップするような時はその反応をとても気にして一喜一憂しますが、 あくまでも「それをしないとたまらないから」やっていることであって、 もしできなくなれば私の欲求は永遠に満たされないことになります。 彼らは「それ」を失っても、別のことに鞍替えすればいいだけじゃないですか。
推しの供給が少ないから自分で、という人たちとは隣人のつもりです。 そういう人たちもまた「それ」を得る機会を失うようなことがあれば暴れると思うので。
それはそれとして、結構前にTwitter上で(主にフォロワーに向けて) 才能についてのアンケートをしてみたんですが、 なかなかどうしてこの世界に「才能」があるものとして生きている人は多いようです。
そのアンケートはある方の「才能」に関する記事を読んだことで触発されたものでした。 でも今にして思えば、その記事も冒頭で言ったような 「クソ理論」に片足突っ込んでいたような気がしています。 いや、まあ、こう言うとめちゃくちゃ失礼なんですけど。
実際にその方はその記事に書いてあるようなことで「才能」に決着をつけて生きていて、 読んだ人の何割かは救われたんでしょうから、 あくまでも私向けではなかったという話ですよね。
というかまあ私、才能については悩んだこと無かったようです結局。 全然、才能というものを信じていないな。
どうにもしないとたまらない、自分の頭の中のものを外に出す作業をするうち、 そればかりだと食傷するので考えてみただけらしいです。
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